シネマ感覚思考 / cinema-feel-think

1つの記事内に基本、映画紹介パートと、ネタバレありパートに分けて記載しています。お見知り置きくださいませ。



映画感想:『堕ちた希望』

 

 

 

 

 

 

 

その手が掴むものは

 

 

 

 

 

『堕ちた希望』

 英題:The Vice of Hope

 

 

 

 

 

あらすじ

  川沿いの年季の入った家で暮らすマリアは、いつものように知った顔の3人に食事を手渡し、ボートに乗せる仕事をしようとするが、その中の1人、ファティマが見当たらない。どうやら逃げ出したようだ。クビをかけ、逃げ出したファティマを探し出さなければならなくなったマリア。妊娠したファティマを、また、売春宿へと送り込むために。

 

 

 

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感想

  第31回東京国際映画祭コンペティション部門、「監督賞」、「主演女優賞」受賞作品。

  希望に纏わるテーマを描いた作品として、この上なく素晴らしかったです。 舞台は実在する川沿いのコミュニティでありながら、この映画で描かれるのは場所を問わない普遍的な物語だと感じました。 非常に残念な事に未だ各地で、望まれない同じような事が繰り返されている現状と地続きでしょう。だからこそ、厳しい環境で主人公マリアがやってみせた、この映画が提示して見せたことは、深く人々の胸に刻まれるのではないでしょうか。

  字面で見ると厳しく、重たい内容を扱っていながら、重さを繊細なバランスで包んでいます。劇中の、観ているこちらが楽しくなるようなシーンは、生を謳歌する様を鮮明に伝えてくれます。 是非とも1人でも多くこの作品が観られるよう、映画館での公開を願うばかりです。私は映画祭で3回観ましたが、4回目をまた観たいのです。

  シネマ感覚思考的、第31回東京国際映画祭コンペティション部門、"グランプリ"!!"監督賞"!!"主演役者賞"!!受賞作品!!!!! 是非とも観て欲しい!!!!!

 

以下、ネタバレを含みます。↓↓↓

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ネタバレ感想

  素晴らしい映画だと思います。本当に是非とも全国公開して欲しいです。

  この映画で描かれるのは、現実と地続きの問題を扱いながら、自身の置かれた抑圧で固められた環境を、意思と希望によって切り拓いていく、普遍的な物語だと思います。死の予感の劇的な場面から、カットが切り替わり、静かに"誕生"した希望の存在の、形容しがたい暖かさは本当に素晴らしかったです。

 

 

  この作品をご覧になった方は、冒頭のペングエが子どものマリアを掬い上げ、介抱して包んだ青い布の柄を覚えていらっしゃいますか?大人になったマリアが常に着ていたセーターと柄が、恐らく同じなのです。布を作り直したのか、似たようなものがあったのか分かりませんが、ペングエがマリアを暖めた証は継承されていました。

 

  そして、マリアを暖め、常に身に纏ってきた青いセーターを、マリアは若いヴァージンに渡します。その後、マリアはヴァージンのいる家を離れる事になりましたが、次に会った時、マリアがペングエと共に逃げ出した時、女性が川辺に座って客を待っている場所でヴァージンは青いセーターを着て座っていました。マリアとヴァージンが再会するまでおよそ12週ほど経っています。この間ヴァージンがどうしていたのかは分かりません。それでも、少なくとも、マリアから継承した青いセーターは、ヴァージンを暖めていたのではないでしょうか。

  "洗濯機"の思い出と共に。

 

  売春宿には"洗濯機"はない事を確かめたマリアが、"洗濯機"のある場所へと、ペングエへと、自ら助けを求め、ヴァージンと共に逃げ出した先で、出産へと臨みました。死の予告をされていたマリアの出産に、ペングエが希望への決死の祈りを捧げます。闇夜に響く、マリアと赤子が共に歩む未来を、ペングエの人生そのものを肯定するための決死の言葉の先に、昇った朝日に照らされ、青いセーターに包まれた希望を抱くマリアが立っていました。 そして、誰かが、赤子に毛布代わりのセーターをそっとかけてあげる場面で映画は終わります。

  ペングエが救ったマリアが、ヴァージンを救い、新たな誕生へと繋がっていく、この一連の青いセーターの受け渡しに、新たな誕生への祈りに、とても心を突き動かされました。そして、新たな命を誰かがまた暖める予兆で終わるこの作品は、観客にも暖かさを与えてくれるのではないでしょうか。

 

 

 

  先ほど"救う"という言葉を使いましたが、本当に救いとなっていたのか断定はできません。青いセーターの継承は、これまでの道程の再生産という可能性もあるのです。

  「希望なんて馬鹿なものにお前は感染したのさ」「みんな自由に取り憑かれてる 意味もわからないのに」という売春宿を束ねるマリおばさんの言葉があるように、希望は空虚なものになりかねない危うさも秘めています。自由への希望を持ってマリアは馬を浜辺に逃がしますが、浜辺を走る馬の姿に未来を見るのは難しい、翻ってマリアたちの未来も同様なのかもしれません。

 

  しかし、マリアはマリおばさんという自身のあり得た未来と決別し、自ら希望へと踏み出しました。これまでの負の連鎖からの脱出が叶うかどうかは分かりませんが、次に繋がるかもしれない希望を、掴もうとする姿を、私たち観客は観る事が出来ました。そして、確かに希望は誕生しました。それを目撃した私たちに、希望は、繋がったのではないでしょうか。

  繋がったからこそ、私はこのブログを書いています。

 

 

希望を次に繋げるという"希望"は、私のブログそのものです。

 

 

 

 

 

 

売春・人身売買について

  この映画で描かれる売春・人身売買のコミュニティは、舞台となった場所に実際に存在するそうです。また、この売春・人身売買の構造は、残念な事に現実に世界各地に存在します。日本も同様でしょう。

  売春という選択は、社会構造によって作り出され、数ある選択肢の中から選べる状況ではなく、強制的に狭められた選択肢から選んだ結果、という人々が大勢いるのが現実ではないでしょうか。この映画で描かれるコミュニティは、強制的な選択の連鎖の結果、自ら連鎖を形作る事に加担せざるを得なくなった人々の姿でしょう。そうしなくても良いような、社会的包摂が現実に必要だと思います。

 

 

 

 監督と主役によるQ&A書き起こし

東京国際映画祭にて、監督のエドアルド・デ・アンジェリスさんとマリア役のピーナ・トゥルコさんが登壇され、Q&Aが開かれました。その際にお二人がおっしゃっていた事を記したいと思います。

 

エドアルド・デ・アンジェリス監督

・これまでの作品で、毎回出身地のナポリを題材にしてきた。 ・物語を産むのはその土地であって、物語を作ってから場所選びをするという順番で作品は作らない。故にロケーションという言葉が好きではない。場所が物語を生み出してくれる、人物を作り上げてくれる。

・今回の舞台は、最近見つけた出身地からあまり離れていない場所。昔は美しく、裕福な人たちが遊びに来るところだったが、今は寂れてしまった。どこをとっても美しさと醜さ、創造と破壊が存在する場所。 ・映画に登場する売春宿は存在する。川沿いにあって、実情を反映している。この奴隷制は存在する、この事実は忘れてはならない。

・定住するよりも、難民が流れ着くような地域で、そこで生まれた私生児はどこに消えるか分からない。自ら育てる人もいるが、社会福祉課に多くは預け、自分は体を売っている。仕事でできた赤子、未来を売っている。

・こういう場所の存在を聞くが、新聞では報じられない。しょっちゅうではないが、事実として起きている。

・イタリアは単一民族ではなく、多様な民族がいる。そういう社会を語らなければならないというよりも、そういう人間を語らなければならないという気持ちから描いている。

 

・売春宿の女性コミュニティで、粗暴な男性がほぼ出てこず、登場するのは医者やペングエぐらいという演出は、監督自身が3人の女性に育てられたという事が影響しており、これまでもそこから考えようとしてきた。今回は男性たちの影響をなくした世界を描いてみたかった。登場させた男性には、女性を助けるという事をさせた。

・マリアは女性が演じているが、希望のない人生を生きている男性という意味もある。男性/女性で考えるのではなくて人物1人1人の意味を、考えてほしい。

・イタリアの社会は危機に攫われている。主人公は女性のみならず男性の様々な苦悩を内包している。主人公が生きている世界を、今起きている現実のものとして描いている。

 

・映画の終盤は、こういう世の中であってほしいという監督の願望が投影されている。

・人生でこんな事が起こったらいいと思う事が、誰かが寝ている人に毛布を掛けてあげる事だった。エピローグに現れる最後の人物は、それを表した。

・距離は私たちを遠ざけるが、芸術やアートは私たちを近づける。

・この作品は、祈りのようなもので、祈りは反復することでもある。監督自身は一点に集中して、考えあぐねるという事が好き。それによって物事へのアプローチを正す事ができるのではないかと考えている。

 

音楽について

・ヴァージンがいる売春宿の宴で歌われる歌のタイトルは「真実が訪れるだろう」で、歌詞は、「長い旅をして、靴がボロボロになって、真実が訪れるだろう」という内容。

・洗濯機でマリアとヴァージンが歌っている歌詞は、「私はポテトを売っている」という内容。職を失って、頭を使う職ではなく、シンプルな労働をしている、その現状を歌っている。

・劇中歌は哀歌が多い

・音楽担当エンツォ・アビタビレ さんは、ジョナサン・デミがドキュメンタリーで取り上げているような方で、エドアルド監督とは前作品から組んでいる。

・台本を書きながら曲を作り、撮影しながらまた作っていく共同作業だった。

 

・配色として、赤、青、白、緑を基調としている。

 

 

ピーナ・トゥルコ、マリア役

主人公の役作り

・映画を撮るに当たって幸運だったのは監督が強い考えを持っていたこと。難しい監督で、監督はちょっとひどい人だったりするが。

・強固な魂を持つ人物を、監督がイメージしてた、それを掴もうとしたがなかなか難しい事だった。

・そこで、肉体的な仕事をした、ストレスがかかったが、身体で肉体で人物像を作り上げていくということをしていった。これは勇気のいることで、肉体的な動きを覚えた上で、最後にはそれを全部捨てるという事をしなければならない。それはスポーツと同じで、練習をして、身体が覚えている状態にし、後は身体に任せてしまう。そういう仕事の仕方をした。

・結果的に、この人物はリアルであって、マジカルな部分もあり、人間的な部分を持った人物になった。

・人物像は鍵になるものだと思う。

 

✳︎2回行われたQ&Aの日本語訳を書き起こして、一部編集したものになります。 

 

 

 

 演出雑記

以下は、作中の演出についての雑記です。

 

・作中、冒頭でファティマが不在だと聞いた後、それでもファティマの分の食料を家に置いていくマリア。優しさを感じると同時にこの後の展開を予感させる部分ですね。

 

・劇中の主要な登場人物に男性はペングエと医者ぐらいでした。監督が意図的にそうしたと仰っていて、ちょいちょい画面に映る男性はいずれもピンぼけしているか、ほぼ画面の中央には登場しないようになっています。しかし、その存在は端々に観客への不安を感じさせるような登場をしています。

  医者がマリアに話をするシーンでは、医者の後ろにピンぼけの眠りこけた男性が映り込んでいたり、マリおばさんの「希望なんて馬鹿なものにお前は感染したのさ」というセリフの後にマリアの顔を映すカットではマリアのバックにピンぼけの男性が映り込んでいたりと、細やかな演出がされています。冒頭の集合シーンでは、遅れてやってくる妊娠した女性の後に続いて、男性が出て来たりという風に。ちなみにこの遅れて来た女性は"ホープ"という名前で呼ばれています。気になる名前です。

 

・40週目、マリアが登場したのは売春宿へと向かうボートに乗り込む場面でした。28週目で働けと言われた後の12週間、マリアは恐らくボートに乗り続けたのでしょう。作中に直接的な描写がない分、観客は苦しみを軽減されますが、その間のマリアを思うと胸が痛いです。というか作中に登場する人々全員の事を想像すると胸が痛い。

  そして、以前はマリアがやっていたボートの送り届けを、違う人が仕事として行い、マリアが運ばれるというのにも揺さぶられました。 また、売春宿に送られた3人全員が妊娠している事が分かる画は、やはりショックです。ここには、"洗濯機"はない事が分かってしまいます。

 

・ペングエがずっと持っていた"洗濯機"の写真に写る、怖がっている子どもたちの表情がとてもとても良かったですね。いい顔をしてた。

 

・青いセーターが継承されていく過程を先ほど書きましたが、マリアが逃がす馬が顔に付けている頭絡(とうらく)の色も青でした。この馬も、マリアたちと同じものを継承していたのだと思います。 マリアの出産の際に映る、浜辺を走る馬のショットは美しさと不安が同居している、とても良い画でした。

 

・マリアの出産の際には、マリアの旧友であり、ヴァージンの母のプレッシングも映っていました。プレッシングもマリおばさんと同様、マリアの未来の一つであり、ヴァージンの未来の一つでもあったと思います。まだ10代そこそこのヴァージンを売春に出させる世界は本当にあってはならないでしょう。ヴァージンが逃げる際に、プレッシングが英語で「I'm a mother.」と言う事の重みに対して、社会は応答しなければならないと思います。

 

・マリアが初めてペングエの住処に行った際にヴァージンが披露した、数の比の見事な説明はヴァージンの才覚を示すと同時に、これまで刈り取られたものを如実に表していました。

 

・青いセーターに関して、継承の証であると同時に、フードを被っているかどうかが人物の心情表現にもなっていました。マリアがヴァージンにセーターを渡した際に、「1人になりたいときフードをかぶるの」と言っていましたね。友人の結婚式でフードを被ったマリアが去る背景には、ピンぼけした2人がキスをする姿が映っていました。マリアだけでなく、28週目にマリおばさんが働けと言った後、マリアの母がフードを被っていました。福田里香先生の"food理論"ならぬ"hood理論"が提唱できるかもしれません。

 

・監督はこの映画の配色に黄色をあげていらっしゃらなかったんですが、作中のfunな場面には黄色が配色されていた気がしました。ヴァージンの家での宴や、"洗濯機"などです。

 

 

 

  この映画は、シネマ感覚思考的コンペティション部門で全アワード受賞でも良いぐらいの作品であり、個人的オールタイムベストな作品となりました。重ね重ね、劇場公開して欲しいです。

 

 

 

 

以上、『堕ちた希望』感想でした。ありがとうございました。